ろうの世界と聴者の世界に往復してきたsuiminn04

皆さん!こんにちは!ゲームライフを楽しんでいますか!?
最近手話について問題を考えるようになってきた suiminn 04です!
今回の記事の内容は「手話の問題」について考えていることを提供したいと思います。
幼稚園児から身についてきた suiminn04は現在今でも手話でのコミュニケーションを行い、さらにVRChat で VR 手話で聴覚障がい者と雑談したり遊んだり毎晩活動しています。
2024年末手話の価値観の違いによって、大きな人間関係の問題が起きました。
様々な考え方や価値観を触れてきた suiminn04としてはこの問題についてどう考えているのかをこのブログsuiminn04の難聴ゲーム部にて言葉を表していきたいと思います。
この記事では日本手話と日本語対応手話の違い、手話の価値観が生む問題、そして suiminn 04の考えを紹介していきたいと思います。
- 日本で利用する手話は大きく分けて2つ:「日本手話」と「日本語対応手話」
- 日本手話と日本語対応手話に対しては何も抵抗がない事
- 方法はいくらでも活用方法あり、楽しく交流できればそれだけでいいと考え
今回の記事はデリケートな内容であり、人によってはあまり良く感じない方がいらっしゃるかと思いますが、これはあくまで僕の意見でありますのでもちろん意見がある方がいらっしゃったらぜひともコメントに記入していただけたら幸いです!
それでは早速行きましょう!
Let’s Go !
この記事を読み終わるのに5分かかります。
手話とは?

まずは手話とは何か?
皆さんもご存知かもしれませんが、手話は聴覚障がい者にとって大切な言語でもあり、コミュニケーションの要でもあり、母語でもあります。
手だけでなく顔の表情や体全体で利用してコミュニケーションを取っています。
筆者としてはボディーランゲージに近いと考えていますが、単なるジェスチャーだけでなく独特な文法や表現がある言語です。
手話を使うには、顔の表情をはっきりと感じ取れるような使い方をすることによって相手に分かりやすく読み取れます。
VRChat でよく見かける手話では、現実の手話とは少々異なる表現で会話を成り立っています。
昔は顔を無表情で会話しなければいけない時代だった!?
ろう学校に通っていた時代にある教師からショックを受けるような話を聞いたことがあります。
筆者が生まれる前の時代では手話を使う際に顔を無表情にしなければならなかったそうです。
しかも感情のある表情で手話を話すと、こっぴどく怒られたという事例もあるようです。
筆者が聾学校で通っていた時では、生徒や教師全員が感情のある表情で手話を交わしている姿が当たり前でした。
むしろ、顔の表情をはっきりと表現しないと相手に伝わりにくいので必須かと思います。
例えば、味の「辛い」のと「苦い」という手話は手の表現は全く同じです。
では、その違いを見分けるには「顔の表情」と「口の動き」が重要です。
「辛い」の場合は、辛くてツライと感じるほどの顔の表情をし、「苦い」は渋い顔をすることで区別しています。
「苦い」には2つの表現方法がありますが、筆者を見てきた中では「辛い」と同じ表現をすることが多いと感じています。
日本で使われる手話は大きく分けて二種類
日本で使われる手話の特徴は二種類あります。
「日本手話」と「日本語対応手話」です。
この二つの大きな特徴は…
- ろう者の母語として活用している
- デフファミリー(家族全員ろう者)が特に多く使われる
- 文章構成としては独特な表現であり、日本語ではないと言われている
- 以前は多く使われていたが、現代の若いろう者ががあまり使わない傾向になっている
- 聴者・中途失聴者・難聴者でもわかりやすく覚えやすい
- 日本語と同じ文章で表現する
- 聾学校では日本語対応手話が主に使われている。
上の動画はカサケンの手話チャンネルのK(カサイ)さんが表現しています。
日本語対応手話と日本手話との違いが非常に分かりやすく参考になれます。
動画を見るように、それぞれ似ているようで少し違うという所がろう者でも混乱する場合があります。
手話の覚え方は人それぞれだが、多くの場合「環境の中で見よう見まねして覚える」ことが多いとよく聞きます。
筆者が考えでは、幼い子供たちは両親や身近な人の会話や生活を見て学び、習慣や言語を覚えていくという傾向があると思います。
日本語や英語などでの身に付き方は耳で聞いて発声の仕方や方言など覚えていきますが、手話の場合は目で見て覚えていくようになっています。
ろう者も手話学習者達は積極的にお互いに手話べりし、話し方や表現の使い方を身に付き楽しく過ごしていることが多く見ます。
筆者も幼稚園児の時は、手話をほとんど覚えていませんでしたので本格的に身に付いたのは、中学からろう学校に通い始めてから友人・先輩たちと手話べりして覚えていきました。
現代では日本で使う手話の資料を調べられる時代になった
筆者自身、日本で使う手話を学ぶ方法は「見よう見まね」が多く、言語学習的な教えはあまり受けたことありませんでした。
もちろん、同世代のろう者も同じのようです。
そのため、人に教えるのにほとんど手話の表現のみで教える感じで「なぜそのような表現なのか?」「このような言葉はどう表現すればいいのか」など正確な情報を教えるのに困ることが多くあります。
最近では表現方法の名称や表現方法の解説がある教材(本や動画など)を公開していることが多くみられ、ろう者や学習者からすんなりと納得できるような声も聞くようになりました。
2022年から VRChat にて VR 手話ができることをアピール!
2022年に Twitter で VR の仮想世界にて手話をできることを公開し、日本の VRChat の流行言語では「 VR 手話」という輝かしい成績も載せるほどになりました。
さらに VRChat の大型イベントの一つ「 Vket 」にて出張版の VR 手話イベントとして開催したという実績も頂きました。
VRChat で活動した影響で VRChat を始め、 VR 手話を使って手話べりたいと思う学習者やろう者、難聴者も徐々に増えるようになれました!
【MoguLive】VRChat で開かれる日本手話教室に注目 なぜ活動を始めたのかを主催者に聞いた
手話を出会えることでコミュニケーションがしやすく感じた

筆者は初めて手話を触れたのは幼稚園児で、当時はあまりうろ覚えで他の人とのコミュニケーションのストレスはなんとも思いませんでした。
卒園してから小学校卒業までの間のコミュニケーション方法は主に口頭での会話、つまり「口話」でのコミュニケーションをしてきました。
当時の筆者の場合は、流暢に口話することができるがお話を聞くコツをつかめていない状態でコミュニケーションの原因で様々なトラブルを起きたことが多くありました。
30人規模で授業を受けるのについていけるか不安になると思い、中学生から高校生までろう学校に通うことで手話を日常に使うようになりました。
最初はうろ覚えの状態で同級生・先輩・ろう者の教師と手話べりし、「これ、違うよ!」と間違いを教えてもらう内に流暢に手話べりできるようになりました。
その時に感じたことは、「お話の内容がすべて視覚で分かるようになったから楽しい!」と徐々に感じるようになりました。
高校卒業後の現在でも、ろう者との交流や手話関連のイベントに参加する時のみ当たり前のように手話べりをしています。
日本手話と日本語対応手話の価値観の違いで問題発生

手話関連のイベントや SNS で手話について情報を取り入れている中で、大きな問題がありました。
「日本手話」と「日本語対応手話」との違いを敏感になっているという問題です。
SNS やテレビなど手話について関心を持つ人が増えると同時に「手話」について深く解説すること等ポジティブな情報が増えるようになりました。
だが、同時にネガティブな情報までもいやでも見るようになっています。
例えば、「手話教室に参加しているろう者が手話講師の聴者に対して『この表現が間違っている!』や『このような表現では私たちはない!』など批判的な事話されて、手話を学ぶ気が失せた」等、残念ながらよく見かけます。
実際筆者にも似たような問題に巻き込まれました。
あるろう者の手話講師からは「日本手話はろう文化の象徴であり、私たちの言語である。現在では日本語対応手話を使用する人が増え、日本手話を使用する人が減っていくことで日本手話を消滅してしまうのではないか」と話され、日本手話をメインに手話学習者に教えています。
それを聞いた筆者は「それでは手話を学び始める聴者としては非常に難しいのではないか?まずは日本語対応手話を学び、ある程度表現を読み取れるようになったら次のステップとして身に着ければいいと思う」と伝えた。
それでもろう者の手話講師は頑なに日本手話を広まる事や日本語対応手話を拒否するような事を主張し、筆者に対して仲間外れするかのようにしました。
その後、関わった事ある人から聞いた話だと筆者に対して気に食わないかのような話をしていると聞いたことありました。
今では完全に別々の団体に分かれお互いの関係がギスギスの状態です。
価値観の違いの問題に対してsuiminn04が感じたこと

お恥ずかしながら筆者は「日本手話」と「日本語対応手話」との違いが手話講師から教えてくれるまでは全く知りませんでした。
今まではろう学校で見てきたことを活かして表現してきましたし、ちゃんと授業として「手話」という言語学習として学ぶことは全くありませんでした。
あったとしても道徳の時間のような授業を設けて手話を身に着くような感じです。
もしかしたら受けたことさえ忘れてしまったかもしれません。
筆者としては手話自体は全く抵抗はなくむしろゆっくり時間を使って、身についていきたいと思っているのだ。
筆者が言いたいことは「『日本手話を使え、日本語対応手話を使うな』などは手話講師としてはいかがものなのか?たった二つの手話なだけなのに日本語対応手話を使う人は、仲間外れというのはそれでは手話を興味持ってくれる人は到底増えない」なのだ。
確かに文化や言語に関しては尊重すべきだが、方法の選択肢を狭まってしまったら初めて手話を学びたいと思っていた人が挫折し、学ぶ気持ちがなくなってしまう可能性あるはずだ。
手話を使ってくれる・手話を楽しく話せるというたったそれだけでもう十分なのではないのだろうか?
全日本ろうあ連盟から重要な記事を掲載している
過去に全国ろうあ連盟からこのような見解を出したことあります。
4.「手話」は私たちろう者のの生きる力
手話はかつて、長いろう教育の歴史の中でその使用が厳しく禁止されてきました。
それはろう児を「聞こえる人と同じように」育てるために教育をするという方針が背景にありました。
そして学校だけでなく社会においても手話は「手真似(てまね)」と蔑まれ、ろう者は言われのない差別や人権侵害を受けてきました。
しかしそうした差別や苦境に屈することなく、ろう児・者は仲間の中で手話を守り、育んできました。
そして自ら差別とたたかい、ろう者自身の権利を守り社会参加を果たしていく集団、組織に発展させてきました。
そしてその過程で、聞こえる人へもろう者のこと、そして手話への理解を広め、手話のできる聞こえる人の中から手話通訳者を育て、手話通訳の制度化に結び付けました。
大切な事は、「手話」が私たちろう者が自らの道を切り拓いてきた「生きる力」そのものであり、「命」であることです。
その手話を「日本手話」、「日本語対応手話」と分け、そのことにより聞こえない人や聞こえにくい人、手話通訳者を含めた聞こえる人を分け隔てることがあってはなりません。
手話を第一言語として生活しているろう者、手話を獲得・習得しようとしている聞こえない人や聞こえにくい人、手話を使う聞こえる人など、それぞれが使う手話は様々ですが、まず、それらをすべてが手話であり、音声言語である日本語と同じように一つの言語であることを共通理解としていきましょう。
長く書かれていますが、「日本手話」「日本語対応手話」を分けているが、日本語と同じように一つの言語としてであるとはっきりと書かれている。
ろう者の第一言語である「日本手話」と聴者が聴者と難聴者が分かりやすいように生まれた「日本語対応手話」はどちらも日本の手話であり、守るべき言語であると考えられます。
ろう者の講師が言うように「日本手話はろう文化でろう者の第一言語であり、日本語対応手話は手話ではない!」と言うのは日本語対応手話を学ぶ・使う権利を奪う行為であると考えられるのではないだろうか?
筆者の考えは最初から日本手話も日本語対応手話もどちらも同じではないかと考えてきて、今でも日本語対応手話を堂々と使っている。
もちろん日本手話を学べる機会があれば、喜んで学びたいし交流したいのである。
堂々と手話を使ってみんなと楽しく手話べりすること自体が「生きる(自信を持てる)」と強く感じる瞬間じゃないでしょうか?
5.手話から「手話言語」へ~「手話言語法」制定に向けて
私たちは「手話言語を獲得する」「手話言語を学ぶ」「手話言語で学ぶ」「手話言語を使う」「手話言語を守る」といった5の権利を保障するために「手話言語法」の早期制定を求めて2010年から全国の仲間と共に運動を進めてきました。その中で海外の動向などもふまえて、私たちはコミュニケーション手段として「手話」があり、そして聞こえる人が言語として日本語を獲得するように、聞こえない人が獲得・習得する言語は「手話言語」であるとして考えました。
動画の方も掲載しております。
手話言語法に関して詳しく知りたい方は下記のリンク付きのテキストにまとめているのでお時間がある時にぜひ読んで頂きたいです。
違いがあっても楽しけりゃいいじゃないか!
今回の記事はかなりシビアな内容で読むに苦しい内容でしたが、これは手話を学ぶことを楽しいというのは大事ですが、手話に関する問題点において考えることも大事かと思います。
筆者自身は聴覚障がい者としても難聴者としても手話を知ってほしいのが強く思っています。
言語が違うから使いたくない、伝統を守るべきなのだなどは正直言うと圧を感じるようなことはして欲しくないし、使いたくないならどうぞ使っている環境で楽しんできてくださいと考えています。
法律で決まったわけでもないし、筆者や現代のろう者たちはろう学校で日本語対応手話を身に付いてしまったものなんだから今の問題を知って、両方使えればいいし使いやすい方で楽しんでいけばいいだけの話というのが筆者の考えである。
見苦しくなるような内容でしたが、ここまで最後まで読んでくれたら本当にありがとうございます。
今日はここまでにしたいと思います!
またね!